テクニカルアートの魂(soul)

ゲーム開発におけるテクニカルとクリエイティブ双方の開発者達は、実に様々な訓練を積み、異なるツールを使い、異なるキャリアパスを持っていて、(違う惑星から、というのが言い過ぎならば)異なる文化圏から来た人々のようです。とても沢山のスタジオがあるのに、ほとんどでは、これらの2つの文化がお互いに理解しあうことは稀で、あまり効果的に協力しあうことができていません。双方が頑張っていたとしても、共通する仕事用語が欠けている事がしばしばです。技術、アート、ゲームプレイ、それぞれのニーズを慎重に融合することが、アートフォームの成功には必要です。コミュニケーションの欠如は、深刻なハンディキャップになります。

美学と技術が全く異なる世界に属するという考え方は、実はごく最近の発明です。’technical’という言葉の語源は、ギリシャ語の’techné’です。この言葉は通常、’skill’か’art’と(英語に)訳されますが、もとは非常に広い意味を持つ言葉です。これは絵画や彫刻に使われる言葉ですが、建築、医療、エンジニアリングにも使われます。昔の人々は、芸術的な企ては、美学のみではなく、困難な実用的な問題も改善すると信じていました。実際、彫刻は形態やプロポーションに対するアーティストの目だけではなく、技術者として力のバランスへの配慮、建築家として材料に関する知識が必要です。この古典的な見方では、美学と実用の両方を深く理解しなければ、誰もアートをマスターしたと主張することはできませんでした。

しかしながら、現代の複雑化した開発においては専門化が求められました。今でも自分だけでゲームの全てを作り上げることのできる個人作家もいますが、多くの開発では、あきれるほどの領域数と専門性で構成されます。それぞれは独自の見解と言語を持っています。この深い専門性は、素晴らしい技術とアートワークを生み出しますが、同時に混乱、コミュニケーション不全、時には失敗を生じさせます。結果として、新たな専門家が生まれました。それはジェネラリストであることの専門家で、美学とゲーム開発の実用的な要求の橋渡しをする人です。この人は、ゲームになるコンテントと、それを支える技術の両方を作れる人です。古い伝統のtechnéの後継者、テクニカルアーティストと呼ばれます。

テクニカルアーティストは、アーティストとしての芸術的なセンスと視覚的な直感を、技術者の現実的な知恵とプログラミング能力と融合します。テクニカルアーティストは、スクリプト言語、データベース、数学的なペインティング、モデリング、アニメーションのソフトウェアを使います。シェーダーをプログラムし、キャラクタリグを組み立て、アート担当の同僚が嫌がる複雑な物理シミュレーションをこなします。最も重要なのは、コンテントを制作する新しい方法を試作したり、他のアーティストの生産性を上げるためのツールを作ることで、ゲーム開発におけるアート側と、ゲームを実現するテクノロジー間の重要な繋がりを提供することです。

ただ、テクニカルアーティストはジェネラリストなので、専門特化した同僚と比べられて不利になることもあります。解剖学の詳細について毎日熟考しているデジタルスカルプターのようにモデリングすることができ、訓練されたコンピューターサイエンティストのように正確にプログラミングすることができるテクニカルアーティストはほんの一握りしかいませんが、テクニカルアーティストの多才性と幅広い経験はすこぶる貴重なものです。技術者の訓練は、グラフィックスカードやマイクロプロセッサを効率的に使いこなす事に集中しているので、アーティストがストーリーや感情を揺さぶるためのデザインツールの設計は困難です。一方アーティストが、自身の欲しいものや欲求不満を、技術者がコード化できるように伝えられるのは稀です。テクニカルアーティストは、両方の言葉に堪能な ので、両側の理解を助け、建設的な関係を築く外交官です。

ゲームは、昔の考えにあるアートとテクノロジーの完璧な統合そのものです。これらは、ひとつの全体の2つの側面であり、異なる種類の人々が無関係に行うものではありません。ストーリーテリングと、技術が生活にもたらすゲームの雰囲気を分離することはできません。キャンバスに描かれなければ、モナ・リザを見ることはできないのです。我々の全てがダ・ヴィンチのように楽々と彫刻から解剖学、絵を描く事からエンジニアリングへと切り替わることはできません。しかし、全てのゲームには、我々のアートにおけるクリエイティブと技術の調和を保つために奮闘する強い魂(soul)を持つダ・ヴィンチの後継者が何人か必要です。