音楽家的ゲーム考

ゲームの何が楽しいか、それは能動的な「体験」です。このゲーム体験は、環境と行為で構成されます。どうあがいてもそうなるのです。音楽(作曲)家の立場からは、それらを描写と表現とも言えそうで、この点でゲームと音楽は似ています。

西洋音楽では古くから宗教世界を描写する時代があり、ベートーベンは、それまでとは違う自身の心情を表現することを宣言しクラシック音楽は開花した、と最近読んだ本にありました。この宣言の成功によって逆に、描写とは自分を取り巻く外側の世界に初めてなった・だったと分かった、とも言えるのかもしれません。

しかし、音楽での描写と表現は、いつもある種、主観的にならざるを得ません。10年ほど前、ソニーから発売されていた犬型ロボットAibo(http://ja.wikipedia.org/wiki/AIBO)から鳴る音楽の作曲を依頼されたことがありました。最初は、普通に「それらしい曲」を作ればいいと簡単に考えていたのですが、やり始めると、何故か全く先に進みません。理由を考えてみると、今まで人間、あるいは特定の人が音楽を奏でる、ということしか想定したことがなかった、という、あまりに当たり前なことに気付いて、とても大きなショックを受けました。相手は犬かロボットか、あるいはその両方か、その両方でもない、かもしれません。そんなヤツがどんな音を出し、音楽を鳴らす、というのでしょう???

このとき、八百万の神かどうかは分かりませんが、その主体をイメージして描写し、そのモノ自体や、そのモノと人間との関係を体験させることが、とてつもなく巨大で面白いテーマだということに改めて気付かされました。以来、無自覚で無防備な、人間による、人間のため、あるいは、人間風な・擬人化された生物、だけのための自分的表現には感動しなくなってしまいました、むしろ抵抗すら感じるようになったかもしれません。

よく周りを見渡してみて頂ければ分かると思いますが、世の中殆どソレしかありません。音楽では聴き手、ゲームではプレーヤーの、心を奪えたときだけ、作り手は感覚を共有することができることを考えると、創作・作品のありとあらゆる環境を深く考えることの重要さを感じずにはいられません。

その上で、もうひとつゲームが偉大なところは、表現・行為をプレーヤーに、程度の差はあれ「委ね」ているところです。音楽家にとって、演奏は作曲者から解釈をある部分委ねられた上で行う重要な表現手段ですが、作曲者は、例えば普通、その楽器の音域や特性を考慮した上で曲を書くとは言え、どう演奏されても必ず自分の想定した表現になるように作ることはほぼ不可能です。多くのゲームはそのプレーヤーにそのような法外な自由を提供し、なお且つ最終的には想定されたゴールに必ず導く、これはスゴイことです。逆に、決められた・既にあった何かをなぞっているだけなら、ゲームとしてあまりにお粗末だと言わねばならないでしょう。

最後に、ゲームが持つこのようなとてつもない自由は世界共通のフィールドであるため、地域の壁を越えることがより容易なことを指摘しておかねばなりません。音楽でも、一部実現できているケースがあるとは言え、ゲームのボーダレス感はその比ではないといつも感じます。約20年の欧米での活動の経験から、今、我々日本人・東洋人の、より果敢なチャレンジが求められていることも間違いありません。

今も日々色々な試行錯誤をしています、成果を上げることは簡単ではありませんが、他に進む道などありません、やるのです。自分(達)にしか作れない体験を楽しみながら、ね。