面白さには旬がある

「今までで一番面白かったゲームは何か?」と聞かれたら、答えは大きく3つに分かれる。1つ目は「多感な中高生時代に熱中したゲーム」(熱中型)、2つ目は「人生で関わったゲームを分析して、これが一番だと考えられるゲーム」(分析型)、そして「今、ハマっているゲーム」(今ハマり型)だ。

「熱中型」は理屈などない。そのゲームよりこちらの方が面白いだろうと説得しても、「そのゲームが面白いことは認めるけど、一番はコレ」という非論理的な議論になる。もう一種の宗教なので、新しいハードにそのタイトルが移植されたりすると、必ず買ってプレイしてしまうロイヤリティーの高いユーザーとなり、ビジネスとしても懐かしゲーを支えてくれるのだから、クリエイターにとってはありがたい存在だ。

「分析型」は「ゲーム性」を重視する。トレードオフ、ゼロサム、ハイリスクハイリターンなどが大好きで、公平で公正なルールでバランスの取れた状態を美しいと「考える」。これは思想なので、彼らは自分が一番面白いと思っているゲームを、必ずしも遊び続けているわけではない。普段は「面白くない」ゲームをプレイしまくっているのに、一番を聞くと、ほとんどプレイしないゲームが上位になるのだ。

「今ハマり型」は、面倒なことは考えていない。実際にプレイし続けているゲームなのだから、逆説的に面白いと定義しているだけだ。だから「本当に面白いか?」とか突っ込まれると、面白いと言い切る根拠も自信もないし、面白さがどこにあるかも自覚していない。でもプレイし続けさせる何かが、そのゲームにはあるわけで、ある意味「ノリ」の世界。

この乱暴なプロファイリングは、プレイヤーとしての立場から見た一般的なもので、ゲームクリエイターであれば、このような偏った観点からだけでゲームを見てはいけない。

ゲームは、本来ルールを持った競技だった。そこにデジタルの技術が入って、独り遊びが可能な、ルールのあるインタラクティブコンテンツに定義が広がり、今、遠藤は「面白さに満足感が得られるインタラクティブコンテンツ」は全てゲームと定義している。

では「面白さ」とは何なのか?というと、これはゲームクリエイター個々に独自の定義がある。逆にゲームクリエイターたる者、自分が目指す面白さくらい定義しておかねばダメだ。遠藤は、「競技」「トレース」「非日常」の3つを、今の自分の面白さの要素としている。

「競技」はルールを持った競争だが、対人戦の場合はイコールコンディションに拘っていた。ところが、デジタルゲームのようにコンピュータが文句1つ言わずに負け役に徹してくれるのであれば、プレイヤーが勝ちやすい競技の方が面白い。さらにソーシャルの要素が加わった状況では、対人戦と言えどもイコールコンディションでない部分に面白さが生まれている。

「トレース」に関しては、80年代のRPGでは、プレイヤー自らが謎を解きながらゲームを進めることに面白さがあったのに対し、90年代では攻略本を見ながら、21世紀の現代においてはネット上の情報を見ながら、それに沿った手順でゲームを進める、つまりトレースしていく面白さもプレイヤーは受け入れている。と言うか、むしろ主流になっているのかも知れない。

「非日常」はテーマデザインの中でも時代による変化が著しい。日常が変化する以上、当然のこと。例えば、何が社会に取って「正しい」「正しくない」なども大きく変化する。

このように、「面白さ」はプレイヤーによっても違うし、時代によって変化していくものであり、ゲームを作る場合には固定概念に縛られることなく、「今、一番面白い」ことに敏感でありたい。