専門化を疑うべき時

運送会社は自分で車を作りません。買った方が楽だし、買った物で困ることはそれほどありません。買った車が理想的というわけには行かず、多少の不満はあるかもしれませんが、だからといって自分で作るのは割に合いません。車を作るのは自動車会社に任せて、自分はそれを使う側に特化することで、人材や時間、お金を有効に使っているわけです。

専門化は会社間の関係に限りません。個人の単位でも同じです。プログラマは絵を描かず、ほとんどのアーティストはプログラムを書きません。その方が自分の仕事に集中でき、より良い成果を上げられるからです。個人から組織、さらには国に至るまで、我々は専門化して生きています。これこそが現代の豊かさの根源だと、私は思っています。

しかし私は、少なくともゲーム開発については専門化が進みすぎているのではないかと考えるようになりました。

企画職がゲームの仕様を書類で用意して、それをプログラマがコードにする、という流れは多く見られます。これは本当に効率的でしょうか。グラフィックスプログラミングには美術的な視点も必要なはずですが、絵に無頓着なプログラマがやっている事もあります。これで良い成果が得られるでしょうか。プログラマの専門化もかなり進んでいて、例えばグラフィックスに特化して他の分野を何も知らない人もいます。それできちんとプロジェクトの目的のために協力できるでしょうか。さらには、ある特定の分野であっても、技術を編み出す人と使う人が分かれていることがあります。ミドルウェアを買ってきて使う場合にはそうなりますし、論文を読んで自分でコードを書く場合でも、きちんと理解せずにサンプルコードを組み込んで終わりにするのであれば、それに近い状態になります。その技術が本当に製品のコンセプトに合致するのかを、きちんと判断できているでしょうか。

スマートフォンやwebプラットフォームの隆盛によって、小規模な開発が復権してきています。今こそ、この状況を見直すべきなのではないでしょうか。専門化することが妥当であるような条件は何か。つまり、どのような条件が揃った時に専門化すべきなのか。専門化するならばどのような条件を整えねばならないのか。専門化の前提条件はコミュニケーションと相互理解、そして目的の共有なのですが、このことはしばしば忘れられます。

しかし、この問題に取り組むのは容易ではありません。何と言っても、専門化は楽なのです。他人とコミュニケーションを取らず、自分の殻に閉じこもるのは本当に楽です。その楽さが短期的な効率を高めます。コミュニケーションは面倒な上に短期的な効率を落としますから、我々は感情的にも理性的にも専門の殻に閉じこもる傾向があります。「自分の仕事をやってから他の事に口を出せ」と言う台詞は正論に聞こえるでしょう?その正論がもたらす結果が、「ゲームが面白くなくても気にしないグラフィックスプログラマ」「待ち時間が長くてイライラしても気にしないアーティスト」「大赤字になっても作りたいものが作れれば気にしないゲームデザイナ」です。我々はむしろ、「自分の仕事が多少適当になってもいいから、他人の仕事に興味を持とう」と言うべきなのではないでしょうか。それが正論に聞こえなかったとしてもです。

私はこの意味において多くの罪を犯してきました。そのことを悔いてはいます。しかしそれだけに、この問題が容易でないことを知っています。この構造は到底一人で変えられるものではありません。是非とも他の人と一緒にこの問題に立ち向かって行きたいと思います。