主観無き開発は無力

ゲームはどの様に作るのが正解なのでしょうか?世界中の誰もその答えに辿り着いていない問いです。ヒット作連発のトップクリエイターでも、『なんとなくコツみたいなものは見えてきたかも?…けどまだまだ新しい挑戦をしたい』という方々ばかりです。

じゃあ、お前はどうなんだ?と問われると、いつの時代も“面白い”と感じるか否かは、プレイヤーの“主観”、“面白い”を生み出せるか否かは、開発者の“主観”にかかっているのではないかと思うのです。

もちろん、基礎知識になるお手本は沢山あります。映画、文学、音楽、心理学、市場リサーチ等々、様々な情報から学ぶ事は重要です。しかし、知識やリサーチだけでゲーム作りは成立しません。「面白いゲームの作り方」みたいな教科書があったとしても、その本を読めば面白いゲームが作れる訳ではありません。繰り返しになりますが、プレイヤーはゲームを“主観”で楽しみます。ならば、開発者自身も“面白いモノ”を“面白い”と感じる“主観”を持たなければなりません。つまり、プレイヤーの主観に届くゲームを作る為には、開発者の主観の精度を上げる必要があります。

「知らない人の気持ちを理解する為に敢えて他の作品を見ない」という人がいます。私はそのようには考えません。まずは色々なものに触れることが大切です。一方、色々な作品の引用や、何かの法則を持ち出して、自分の意見の正当性を説く人もいます。が、「……で、貴方はどう思っているんですか?」と問い質してみたくなります。これでは、情報に振り回された主体性のない作品作りになってしまいます。

私は、誰も見た事が無い新しいものを生み出し、お客様に楽しんで頂くのがゲーム作りだと思っています。なので、“面白い”の第一歩は開発者自身が主体的に打ち立てる必要があると考えます。それは、エゴイスティックな考え方なのかもしれません。しかし、こんなゲームが流行っているから似たようなものを、という物作りは、お客様に対して失礼です。それに、限りある人生を費やして成し遂げる仕事としては不十分だと思います。

とは言え、完全に今までに無いものにしてしまうと、意味不明なものになってしまいかねません。ある程度の傾向と対策、定型化された“文法”を活用しながら新しさを打ち出していくのが現実的なスタイルです。

この時に注意する必要があるのは、定型化された文法は何故、定型化されているのか?今回のタイトルに適した文法なのか?を吟味する事です。「○○でやっていた手法だから面白い筈だ」はありえません。

テストプレイで集めたレビュー結果も同じです。「こういう要望が多数寄せられたから、その通りに実装したら良くなる」も、ありえません。何故そのような要望が挙がったのか?正体を突き止めて、効果的な対処を考える必要があります。

つまり、様々な情報を集めた上で、最終的にどうするかを決定するのは結局のところ、開発者の主観です。この主観の精度が低いと、独り善がりで理解されない作品になってしまうのです。

主観の精度を上げるには、いつも新しい考え方で臨み、異なる考え方を取り込む事。自分が正しくても、相手が間違っているとは限らない。一つの正解を導き出したからといって、その他の正解を探す努力を怠らない。その結論は自分自身で出したものか?自分は本当に面白いと感じているか?誰かに正しいと思い込まされていないか?最終的には自分自身の頭で考える事を繰り返すことになります。

これはゲームを作る事自体をエンターテインメントにしてしまおうということかも知れません。エンターテインメントは作る事もエンターテインメント!ならば、楽しんで貰えるゲームを、苦しみながら、楽しみながら作っていきたいです!