プロデューサーについて少し話したいこと
著者: 照山 茂行私事だが、二人の叔父が一昨年ほぼ連続して他界した。法事の席で、親族に久しぶりに会うと「今、どんな仕事をしているのですか?」と尋ねられる。「コンピューターゲームのプロデューサーをしています」と返すと、必ず「ゲームのプロデューサーですか?」と怪訝な顔をされる。「まぁ、プロジェクト管理的な仕事ですよ」と煙に巻くような事を言ってすませるわけだが、「プロデューサー」という仕事は一般にはわかりにくいものなのだと思う。
以前、「プロデューサー」をテーマに講演をしたときに「現場を指揮、企画内容、予算から回収までを管理する人」と定義し、クリエイター視点とビジネス的側面を両立させる事で初めてその役割を成すのだということを強調した。資質については「ネゴシエーション能力」「コミュニケーション能力」「情報収集能力」そして「情熱」だと、纏めもした。今回、それにちょっと補足して語ることにする。
私が、理想とするプロデューサー像は、映画業界の「プレイヤー」と呼ばれるような存在だ。ロバート・アルトマン監督の「ザ・プレイヤー」という映画をご存知だろうか。この映画で描かれるのはハリウッドの「プレイヤー」だ。ただ、この映画の日本語解説のように、それを「権力者」と単に訳すのには、同意できないところがある。つまり、権力を得て、あらゆる決定権を持ちたくてなるものじゃないと思うのだ。そもそも使う資金も身銭ではない。出資者からのものであったり、企業からのものであったりするわけで、「予算を回す」や「カジノで張る人」みたいな意味合いのほうが、しっくりくる。
ビジネス面でいうなら、作品をヒットさせて利益を出す事が最重要任務だ。そして、発言権や決定権を強化していき、より大きな仕事を得るのが王道だが、この「ヒット」というのは確信的に予期できるものでは無い。なので、資金をどう回収(リクープ)出来るかを、常に「考える」ことが重要なのだ。会議とか机に向かうだけでなく、風呂の中でもトイレの中でも、兎に角、暇さえあれば明暗の可能性について頭でシミュレーションして、思考を停止しない事が大切だ。
そしてプロデューサーには、作品の矢面に立つ覚悟と、セールス・プロモーションにおいて発言していく「度胸」も必要だ。これは、自己顕示欲や功名心が動機ではない。最近では、現場クリエイターの影に隠れることなく、誰の命令でもなく堂々とメディアに露出している若いプロデューサーも多く、心強い。そもそも旗を振る人がシャイでどうする?
あとよく、プロデューサーで「競合ゲームをどれだけプレイしているか?」「最近のゲームをどれだけプレイしたか?」を前提にスタッフと議論をしたがる人に遭遇するが、同意できる部分とそうで無い部分がある。柳の下のドジョウ的な発想になりがちで、クリエイティブを損なう危険性もあるから注意が必要だ。
とはいえ、皆がオリジナル発想をできる天才ばかりでもない。今やビデオゲームが誕生して30年以上、「歴史」を顧みるのも有効な方法になる。例えば「考える人」と言えばロダン(1840-1917)の彫像だが、あれはダンテ(1265-1321)の「神曲」をモチーフに、さらに世紀を離れたルネサンス期のミケランジェロ(1475-1564)のスタイルを模した作品だ。制作当時の流行りとかけ離れた「再生」の発想の産物なのだ。ビデオゲームも同じように、歴史的作品の中に学び、発見するのも出来る時代じゃ無いかと、痛感している。これからの時代、そういう「優れたプレイヤー」たることも、若い人へ期待できるのではないかと思うのだ。