ゲーム体験を伝える想像力
著者: 中村 勲最近思い出す昔話をひとつ紹介しよう。
あるゲームの制作に着手した直後、そのゲームの市場性についてスタッフから消極的なレポートをもらった。「あまり売り上げが期待できないテーマだから、より大きな市場が確認されているテーマに開発資源を投入するべき」という内容だった。
私は、反論した。「そういうゲームは他のクリエイターに任せよう。このゲームでは、まだ知らない“体験”を届けるんだ!」と。同時に、「俺が作れると思っているウチは、作れるんだ」とも言い切った。とても青臭い思い出であると同時に、その時の私が大切にしていたのは、プレイヤーに体験を届けようとする熱意だったのか、と思い返している。
そのゲームは、プレイヤーが支えてくれたおかげで、その後5作を重ねる事ができた。ある時、私が作ったゲームを楽しみにしているというプレイヤーに地球の裏側で会うことができ、とても感動した。日本から遠く離れた場所にも、待っているプレイヤーがいる。作ってよかった、と。そして「もう体験を追加する事が出来ない」と感じたときに、そのテーマには別れを告げた。寂しかったが「これでいいのだ」という気持ちだった。熱意が達成感に昇華したのかもしれない。
今でも、ゲームは「体験」を提供できるものだと考えている。想像の世界での体験であったり、現実世界のそれであったりするが、ゲームが提供する体験がプレイヤーの腕前に合致した時に楽しんでもらえる。また、プレイの結果に納得してくれた場合に、より上位の結果を目指そうという向上心が生まれ、それに支えられてプレイを重ねる、という構造だと考えている。
想像の世界での体験はクリエイターの想像力から生れる。と説明されれば、多くの人は素直に納得するだろう。プレイヤーは新しいゲームの展開に「いったいこの先どうなるんだろう」と心を躍らせる。
一方、実世界の追体験をテーマにしたゲームでは、写実性のみが唯一絶対の評価軸と思われがちだ。しかし私は、ここにもクリエイターの想像力が必要であると主張したい。例えばスポーツであれば、訓練された身体能力の発揮は、憧れの対象となり、挑戦意欲を掻き立ててくれる。そしてなにより美しい。プロのスポーツ選手のプレイを見て、「私もあんな風にかっこよくプレイしたい」と誰もが思うだろう。だが、訓練を重ねてもプロプレイヤーになれるのは極わずかである事も、多くの人は理解している。訓練の結果自らの限界を悟り、憧れは永遠となるのである。だから、もし忠実に再現されたプロスポーツのゲームならば、そのゲームをプレイできるのは実際の技量を持つプロプレイヤーに限定されてしまうことになる。
そこでクリエイターの想像力である。実際のプレイに必要な技量と、そこに到達することが出来なかったプレイヤーの技量の差を埋めてくれる仕組みをどうしようか、あたかも自然に上手いプレイを行っているような体験を提供できるようにするためには、プレイヤーの技量をどのくらいと定義しようか、などなど、クリエイターの想像力が必要になる場面は沢山ある。そして、プロプレイヤーの持つ技量に至る訓練過程を省略し、その「体験」にプレイヤーを誘うことができる。
つまり「ゲーム」とは、クリエイターによって想像された「体験」を伝えるエンタテインメントである、とまとめることが出来よう。では「エンタテインメント」は何と言い換えれば腑に落ちるのか、最近自問自答している。とりあえず私はこれを“おもてなしの心によりプレイヤーに提供されるもの”と言うようにしてはどうか、と考えている。伝わらなくては価値が無い。他人に届けるという熱意が伴わなければ、それは「体験」を届けたことにはならないのである。