ゲームを通して友人との共通の思い出を生産すること
著者: 吉田 大成ゲームとは何なのか?
「遊びや遊戯と訳され、勝敗を決めるためのルールや環境または他人との相互関係を元にした楽しみのために行われる活動」とウィキペディアには記載されています。
私は、ゲームクリエイターとは、ゲームと定義される領域を拡大していく職種と考えています。例えば、今は「ゲーム」と「ソーシャルゲーム」は別のものと思われがちですが、今後はそれが一緒になるでしょう。このように、ゲームという言葉として定義されている領域を拡大させていくことが、ゲームクリエイターとしてやるべきことだと思っています。
私は、昆虫採集、着せ替え、ごっこあそび、学校の休み時間に夢中になって話していたことなど、幼少期の体験を大事にしています。幼少期に楽しんでいたこと、求めていたことは、本来すべての人々が本能として求めていることでしょう。ゲームを通して、大人になるにつれ失われていく幼少期に感じた感情を再び蘇らせ、楽しいと思ったことを思い返し、その中にゲームの楽しさを導き出すのではないかと思っています。そういった経験の中にあった”勝負を決めるためのルールや環境”といった、ゲームの根源となる普遍的な部分を大事にしつつ、新たな領域を拡大し、幅広い年代で受け入れられ得るテーマやルールといった概念の中に体験を置き換えられるかどうかを見極め、創造できるか、ということを考えてゲームを作っています。
そして、ここ20年ほどの間に家庭用ゲーム機が普及するなかで、ハードウェアやソフトウェアの性能が向上し、ゲームの拡大は映像の美しさや音楽といった付加価値的な部分に特化していった気がしています。これは、五感への刺激を追及することで新たな感動を人々に与えることによるゲームの領域拡大でした。一方、音や映像に依存しすぎて「他人との相互関係」が失われていったのではないかと思っています。人々は家の中だけでゲームをし、一人でプレイすることが大事になっていきました。そのような行動は本当に楽しいのか?自己満足にしかならないのでは?と、感じていました。元来、人がゲームを通してやりたかったこと、それは、”ゲームをテーマにして会話をし、感動を共有すること”だったのではないか。それこそがゲームの楽しみではないか、というシンプルな思いに辿りついたのです。生活の一部として、会話のネタとして成立するか、ゲームをプレイしていることをコミュニケーションとして共有できるか、という領域です。だから私は、1万人がプレイしているゲームより10万人。10万人より1億人が……、それ以上の人がプレイしているゲームの方が面白い。周りにプレイしている人が大勢存在し、人との共通の思い出にいつでもなれるということが、私の考える「ゲーム」の本来あるべき姿です。
フランスの思想家ロジェ=カイヨワは著書の一節で、ゲームというのは「何かを生産するものではないこと」と定義付けています。確かに、物理的な「生産」はゲームにはありません。そのためか、ゲームや娯楽というものは時間の無駄だと揶揄されることもあります。しかし実際は、ゲームを通して感動や高揚感、共感という人の感情を「生産」していると思っています。
ソーシャルゲームは、友だちとのコミュニケーションや共通の体験を得るツールの一つであるととらえることができます。一緒に過ごした時間、人との関わり合いなど、ゲームを通して人間そのものを形成する場にもなります。これは思い出となります。そして私は、まさにゲームを通して人との共通の思い出を「生産」するということを可能にしていきたいのです。