「それを最初に思いついたのは僕だ」で、それがどうした。
著者: 木下 昌也世の中にゲームは何本あるのだろう。
1972年のポンから始まって2012年の今年で40年。その期間にリリースされた全ゲームの数を合計すると、きっととてつもない数になる。例えば、2008年にiPhoneのSDKが開発者に対して公開されてから、わずか数年でアプリケーションの数は30万本を超えた。しかも、そのうちの約2割がゲームなのだそうだ(出典http://taichino.com/memo/2282)。一方、広辞苑(第6版)に収録されているのは24万語、大きな大学の図書館の蔵書数は100万冊程度。ということは、今までに発売されたゲームタイトルの数は日本語で存在する単語の数を凌駕し、パッケージに入れて本棚に収めると図書館の本棚を見渡す限り埋め尽くすはずだ。
これだけの数があれば、だれも思いつかなかったゲームなどまず存在しない。さらに、製品になったものの陰には、世の中に出なかったものや、アイデアレベルで終わったものがその何十倍もあるだろう、つまり、新しいゲームが出たときに「あれは昔、俺が考えたんだよね」と言っている人が、あなたも含めて世の中には何人もいるということだ。
製品にならなかったアイデアはどうして世の中に出なかったのだろう。面白そうではなかったというのは大きな要素ではあるが、それだけではない。表現力が追いつかなかった、難しすぎて受け入れる素地がなかった、製作を続けるには費用がかかり過ぎた、ビジネスに出来なかった等々、理由は様々だ。しかし、最も大きな原因は、ゲーム内容と環境のミスマッチだろう。
具体例をあげて説明しよう。プレイ時間が長すぎてアーケードには向かないと思われていたタイプのゲームは、家庭用で花開いた、体を動かすゲームは恥ずかしいので、日本人以外は誰も遊ばないと言われていたのが、海外で大人気となった。一人で遊べないゲームはビデオゲームに不向きと思われていたが、ネットワーク環境の発展とともに表舞台に立った。
僕が今までに読んだ本の中で、強く影響を受けたのが進化論の本だ。動物はそうありたいと思って体を変形させるのではなく、環境に適したものだけが生き残った結果が進化だということ。ペンギンは水族館で見ると生存競争と無縁に見えるかわいい動物だが、極寒の極地で生き残ることが出来る数少ない生き物である。南極で最も優れている動物はライオンでもワニでもなくペンギンだ。何が優れていて何が劣っているかは環境を抜きにして語ることはできない。生物が努力で変えることが出来るのはDNAではなく、生存に適した環境を探すことだ。
ゲームを取り巻く環境も変わっていく。コンピューターの世界はドッグイヤーと言われ通常の7倍のスピードで社会が変化する。携帯の世界は更に変化が激しい。昨日の勝者は今日の敗者、今日の敗者は明日の勝者、嘘だと思うなら古本屋に行ってコンピューター関連のビジネス書を見てくるといい。昔からそうであったと思っていたことが、ほんの10年ほど前では全く違う捉えられ方をしていたり、影も形もなかったりするのだ。
さあ、手帳やアイデアノート、あるいはEvernoteを読み返してみよう。記録する一方で読み返すことなどなかったんじゃないか。昔の雑誌を探して見てみよう。みんな途中まで掘られた鉱脈である。先に掘り進めてもいいし、少し戻って方向を誤ったところからやり直してもいい。
昔うまく行ったモデルを金科玉条のように現在に適用することや、かつて失敗した手法を必要以上に恐れるのは、環境に適合せず絶滅した生物と同じ結果が待っている。滅びたくなければ可能性を探そう、リスクを取って一度負けた相手に再戦しよう。「あれは、考えていたんだよね」と、来年も言いたくなければ。